■家康の城(しろ)
家康は生涯にわたり、多くの城を築きました。磐田市にも家康が築いた城の跡が残されています。その中でも、とりわけ家康とゆかりのある三つの城を紹介します。
◆幻の城 城之崎城
遠江を治めることになった徳川家康。最初にその本拠地としたのが見付の地でした。当時、見付には今の県庁にあたる国府(こくふ)が置かれ、政治・経済の中心地であったと同時に、住む人たちも多かったことから、ここを本拠地にすることにしたのだと推定されます。見付国府の場所は今の大見寺やその北側の見付交流センター、磐田北小学校にかけての地域だったと推定されています。
この場所にはもともと見付城(遠府(えんぷ)城)があったようですが、家康は、南側の小高い丘陵の上に新しい城(城之崎城)を造る計画をたてました。
城之崎城の工事は永禄(えいろく)12年(1569)の秋から進められ、翌年の6月にはほぼ完成し、家臣たちの屋敷の場所も決まっていたようですが、家康は突然ここを放棄し、浜松に移りました。
浜松に移った理由は、織田信長の助言があったからですが、その詳しい理由はわかっていません。その後浜松を本拠地にしたことから、磐田を本拠とした場合、天竜川を背にした「背水の陣」となってしまい、本拠地である岡崎や同盟者である織田信長からの援軍が遅くなることなどが考えられています。
城跡のうち本曲輪(ほんくるわ)(本丸)は現在、城山球場となっており、土塁(どるい)などに当時の面影を見ることができます。
◆徳川・武田 抗争の舞台 社山城
社山(やしろやま)城は南北朝時代に築城されたとする文書があり、その後、遠江守護となった今川氏の支配下に置かれたようですが、今川氏が滅亡し、徳川家康が遠江を支配するようになると、北遠の軍事拠点である二俣城(浜松市天竜区)をめぐって、武田氏との抗争の舞台になりました。
社山城は二俣と見付の中間地点にあり、独立した丘陵であることから見晴らしも良いなど、城を築くのに条件の良い場所であったのでしょう。武田信玄が遠江に侵攻した際、合代島に陣を張ったと記録されていますが、このとき社山城も陣の一部として使われたと思われます。武田信玄が病死したあとは、徳川家康によって修理されたと記録にあります。天正(てんしょう)3年(1575)、長篠(ながしの)の戦いで武田軍が大敗し、二俣城も家康の手に落ちると、社山城も役割を終えたと考えられます。
社山城は「山城(やまじろ)」と呼ばれ、南北に長い本曲輪(ほんくるわ)と考えられる広場に八幡神社が建ち、東側に二の曲輪があります。城跡からは遠く天竜川や浜北方面を見渡すことができ、現在も土塁や堀などが良好な状態で残っており、一部は市指定史跡となっています。
◆軍議・鷹狩りの拠点 中泉御殿
中泉御殿は、天正6年(1578)、小さな砦を造ったことがはじめであるといわれています。もとは地域の有力者で府八幡宮の神官であった秋鹿(あいか)氏の屋敷でしたが、家康に献上したと伝わります。その後、家臣の伊奈忠次(いなただつぐ)に命じて御殿の建築を行い、天正15年(1587)ごろに完成しました。
朝鮮出兵、関ケ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣と多くの戦(いくさ)時に立ち寄り、作戦会議の場としても使われましたが、最も使われたのは家康が愛した「鷹狩り」の場としてでした。ここに宿泊して、大池周辺にいる鶴や鴨などの水鳥を狩り、家臣と獲物を調理して味わうのを喜びとしていたと考えられます。なお、鷹狩りは単なる遊びではなく、心身を鍛えることやその土地の状況を視察することも目的としていたようです。家康は御殿の周辺に商人たちを呼び寄せ、税金面で優遇するなどして中泉の発展の基礎を作りました。
御殿は寛文(かんぶん)10年(1670)に廃止となり、西光寺(さいこうじ)(見付)に表門が、西願寺(さいがんじ)(中泉)に裏門がそれぞれ移築されて残っています(市指定文化財)。跡地の一部は「御殿遺跡公園」として立ち寄ることができます。