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【特集】磐田歴史浪漫 家康ゆかりの磐田をめぐる(3)

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静岡県磐田市

■家康の名残(なごり)
◆伝酒井の太鼓
三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康は、浜松城に逃げ帰ります。追ってきた武田軍に対して、家臣の酒井忠次(ただつぐ)が浜松城内の太鼓を打ち鳴らしました。何か策があると見た武田軍は追撃をあきらめ、家康は窮地を救われたと伝えられています。
家康を救った伝酒井の太鼓は明治7年に見付の町民が買い、その後旧見付学校に寄贈されました。現在は市の指定文化財になっています。(位置図(1))

◆宣光寺の釣鐘
宣光寺(せんこうじ)(見付)に家康が寄進した釣鐘があります。
口径51.5cm、高さが74cmある釣鐘の胴の部分には「源(みなもとの)家康」の銘文があります。これは天正15年(1587)、長篠の戦いや本能寺の変などを経て、戦死した多くの武将のために家康が宣光寺地蔵菩薩にその冥福を祈るとともに寄進されたもので、市の指定文化財になっています。(位置図(2))

◆家康公お手植えの蘇鉄
中泉に小笠寺三仭坊(おがさでらみひろぼう)という寺院があり、家康の信仰が厚く、その祈願所を務めていました。天正6年(1578)ごろ、三仭坊の地に中泉御殿を造ることになり、家康の命により寺院は磐田駅付近に移転しました。この時に家康が寺院の境内に蘇鉄(そてつ)を寄進したと伝えられています。
その後、昭和17年に三仭坊が大乗院(だいじょういん)と合併することになった時、現在の磐田市役所の敷地内に蘇鉄が寄贈されました。蘇鉄は樹齢400年といわれています。(位置図(3))

◆寺谷用水
家康が遠江国を手に入れた時、家臣の中で土木技術に優れていた伊奈忠次に天竜川の治水と流域の水田経営を命じました。
忠次は地域に詳しい平野重定(ひらのしげさだ)に相談し、2人は水田の用水路を整備することが大切だと考え、天竜川からの用水の取入口を寺谷村(現在の寺谷)に設けることを決め、天正18年(1588)から工事に取り掛かりました。
寺谷用水は天竜川の治水と利水を一体的に行う革新的なかんがい技術導入の先駆けとして、現在も「命の水」を届けており、令和4年10月6日に世界かんがい施設遺産に登録されました。(位置図(4) 寺谷用水土地改良区)

■残してきたものはこれからも続く
磐田には数多くの「家康伝説」があります。その多くが「家康が逃げた」「家康を助けた」といったもので、当時の人々のイメージは江戸幕府の初代将軍でも大御所さまでもなく、少し頼りない若き武将であり、身近な存在として感じていたことがわかります。
家康はおよそ16年間を遠州地方で過ごしました。その中で多くの苦難を経験しているからこそ、人間味あふれる人物像が培われたのではないでしょうか。
家康が磐田に残したさまざまなものに触れ、家康の息吹を感じてみましょう。

◎家康と磐田
磐田で過ごした若き家康の足跡を動画で紹介します。
二次元コードからご覧ください。
※二次元コードは本紙P.9をご覧ください。

・文化財を見学するときは、マナーを守って見学しましょう。
・紹介した文化財の中には、常時見学できないものもあります。
・徳川家康にまつわる歴史や伝説については諸説あります。

※詳細は本紙をご覧ください。

       

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