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【特集】磐田歴史浪漫 家康ゆかりの磐田をめぐる(1)

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静岡県磐田市

今、大河ドラマで話題の徳川家康。
いまからおよそ420年前、戦国の混乱を勝ちぬき、平和な時代をもたらした人物として有名です。
皆さんは、この日本で最も知られた戦国武将が、磐田市と大きな関わりがあることをご存じでしょうか。
市内に残る家康の足跡をたどる旅に出かけてみましょう。

■家康の戦(いくさ)
磐田市には徳川家康の合戦のエピソードが数多くあります。その中でも「一言坂の戦い」は三方ヶ原の戦いの前哨戦として語られています。

◆若き家康、磐田に住まう
三河国(みかわのくに)(現在の愛知県東部)の松平家の当主として生まれた徳川家康は、幼少期から人質として駿府(すんぷ)(静岡市)で育ち、多くの「どうする?」を経て永禄(えいろく)12年(1569)、満26歳にして三河・遠江(とおとうみ)の2カ国を治める大名に成長します。
このとき、家康はまず見付に入り、ここを住まいとしました。江戸時代初期の『三河物語』にも「見付之国府(みつけのこくふ)を御住所に成(な)され…」とあり、遠江を治めるにあたって、古代から遠州地方の中心地であった見付に住むことが大事であったことが分かります。

◆迫りくる武田軍
しかし、3年後の元亀(げんき)2年(1571)10月、領土の拡張をねらう武田信玄の侵攻によって、磐田市内も戦場となります。
約2万5千の兵力で遠江に攻め込んできた武田軍に対して、家康は約3千の兵を連れて大日堂(だいにちどう)(三ケ野台)に至り、武田軍の情勢を確かめようとしました。しかし、すでに約2kmの地点にある木原(きわら)(袋井市)まで進軍していた武田軍に見つかってしまいます。

◆一言坂の戦い
武田軍は軍勢を二手に分け、挟み撃ちにしようと迫ってきます。兵力にも差があり、このまま戦うのは不利と見た家康は退却することを決め、見付から池田近道(姫街道)を通って一言坂までたどり着きますが、そこで武田軍に追い付かれてしまいました。
当時の一言坂は道の両側が高くなった堀の底のような道で、幅も狭く、急な坂道だったようです。一度にたくさんの兵隊が通れないことから戦うのに有利だと考え、ここで敵を食い止め、その間に家康を遠くに逃がす、という作戦をとることにしたのだと推定されます。

◆立ちはだかる 本多忠勝
ここで軍の一番後ろについて戦ったのが大久保忠佐(ただすけ)、内藤信成などの家臣です。その中でも本多(平八郎)忠勝は大いに奮戦し、敵方の武田軍も「家康に過ぎたるものが二つあり ※唐の頭に本多平八」という落書(らくしょ)を立てて彼の武勇を褒めたたえました。家臣の命がけの働きのおかげで家康は無事に天竜川を渡り、浜松城に帰ることができました。家康は「その武功を感嘆(かんたん)」し、「吾(わ)が家の良将と謂(い)うべし」と最大級の賛辞で忠勝を褒めたといわれています。
磐田市での損害を最小限に抑えた家康でしたが、12月、三方ヶ原の戦いで武田軍に完敗し、その前途は風前の灯となりました。しかし翌年4月に信玄が病気のため亡くなり、戦況は再び家康に有利になっていきました。

※唐(から)の頭(かしら)…「ヤク」(中国などに生息する牛の仲間)の毛で作ったかぶと。高級品。

       

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