■語り継がれた者たちの想い″〜受け継いだ使命〜
今から80年前の昭和20年8月20日、1機の緑十字機が鮫島海岸へ不時着しました。今回、軍使たちを救援した当時の鮫島の住民やその親族の方々に話を聞きました。
緑十字機不時着は、市民でも広く知られたものではありません。そのような中で、当時の出来事を知る人、語り継がれた人たちのそれぞれの想いがありました。
◆歴史を語り継ぎながら地域に貢献
大橋大輔(だいすけ)さん 48歳
・警防団へ不時着を伝えた漁師 大橋政治(まさじ)さん(当時52歳)のひ孫
曽祖父は当時、鮫島海岸で干しているイワシが盗まれないように浜小屋の近くで番をしていたようです。その際に、飛行機の不時着と軍使たちの声に気づき、鮫島の警防団へ飛行機が落ちたことを知らせに走ったそうです。
曽祖父が日本の歴史に少しでも関わったことを名誉に思います。これからもこの歴史を語り継ぎながら、さまざまな形で地域に貢献できたらと考えています。
◆磐田市で起こったことを市民へ伝えていきたい
山中康広(やすひろ)さん 69歳
・警防団員の指揮をとった警防団分団長 山中早苗(さなえ)さん(当時45歳)の孫
私の祖父は、分団長として他の団員と一緒に警防団詰所で夜警をしていたそうですが、漁師の大橋政治さんから飛行機が落ちたという話を聞くと、直ちに警防団員の指揮を執ったそうです。分団長だったので各団員へ指示を送ったと思います。
終戦につながる出来事が磐田市で起こったことを市民の方に伝えていきたいと思います。
◆語り継ぐこと、平和を守ることが使命
緑十字不時着を語り継ぐ会 代表
中田智久(なかたともひさ)さん 68歳さん
・鮫島海岸で軍使たちを救援した警防団員 中田正行(まさゆき)(当時18歳)の息子
父は緑十字機が不時着した時、警防団の年番でした。警防団詰所で夜警をしていた他の団員から飛行機が落ちたことを聞くと、現場へ駆けつけ、海岸で軍使たちを救援し、緑十字機の須藤(すどう)機長を連れて電話のある鮫島集落に向かったそうです。
この出来事を多くの人に知ってもらい、語り継ぐことや平和を守り続けることが、私たちの使命だと感じています。
◆私のできる範囲で伝えていく
山中眞二(しんじ)さん 69歳
・緑十字機の周辺の警備にあたった警防団員 山中義夫(よしお)さん(当時17歳)の息子
警飛行機が落ちたということで、父は浜に向かい、途中で軍使たちとすれ違ったそうです。浜に着くと機体は潮が引いた波打ち際にあり、そのうちに飛行機の周りに何人かの村人が集まってきたため、しばらくの間、不時着した飛行機周辺の警備にあたったそうです。
父が関わったこの出来事は、私の同窓生でも知る人は少ないので、私のできる範囲で伝えていきたいと思っています。
◆困っている人を助けたい気持ちは誰もが持っている
鈴木良直(よしなお)さん 70歳
・軍使たちを電話機へ案内した警防団員 鈴木邦夫(くにお)さん(当時17歳)の息子
飛行機が不時着した時、私の父は山中分団長と警防団詰所で夜警をしていたそうです。救援した軍使たちを電話機のある農業会鮫島出張所へ案内すると、軍使たちは「早く東京に帰らないと大変なことになる」と話していたそうです。またしばらくして、軍使たちがやってきて、「電話はありますか」と聞かれたので、電話のある場所へ案内すると、電話機を使って「勅使※だ」「勅使だ」と話していたそうです。その後、軍使たちは雑貨屋の「太田屋」に戻り、しばらくしてトラックが到着し、最後に敬礼して出発したそうです。
私の父でなくても、磐田の人は人情味があって、困っている人を助けたい気持ちを誰もが持っていると思うので、同じことをしたと思います。
※天皇の命令を伝えるために、天皇から派遣する使者のこと
◆平和な世の中が続いて欲しい
岡本妙子(みょうこ)さん 96歳
・雑貨屋の「太田屋」で軍使たちへお茶を提供したご本人(当時16歳)
当時、私は学生で軍需工場に動員されていましたが、8月16日から家へ戻っていました。私の家は鮫島で「太田屋」という屋号で雑貨店をしていました。太田屋の前には、火の見櫓(やぐら)があって、その横に警防団の詰所がありました。あの夜、疲れ果てて眠っていましたが、雨戸を叩く音で目が覚めました。軍使の1人が家の中に入ってきて「夜が明ける前に帰りたいので、なんとかして下さい」と言っていました。農協に勤めていた兄は、母に言われて農協の鍵を持って出かけて行きました。しばらくして、軍使たちが店の中に入ってきました。私は母に言われて恐る恐るお茶を出しました。私の行動が少しでも世の中の役に立っていたならうれしいです。