昭和20年8月20日深夜、戦争を終結させるための重要な文書を運ぶ1機の飛行機が鮫島海岸に不時着した—
■入り混じる終戦への″想い″〜80年前の舞台裏〜
◆ポツダム宣言の受諾(じゅだく)
昭和20年8月15日、玉音放送で日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを表明しました。
しかし、一部の陸海軍部隊は、連合国軍との徹底抗戦を叫んでいたと言われています。また、旧ソ連軍は正式な終戦でない中、樺太(からふと)の日ソ国境を突破し南下を進めていました。このような状況の中で、日本は連合国側と終戦処理について具体的な手続きをして、早急に降伏文書へ調印する必要がありました。
◆軍使たちを運ぶ緑十字(みどりじゅうじ)機日本はマッカーサー連合国軍最高司令官の命令により、マニラへ軍使一行を派遣しました。この軍使を木更津から中継地である沖縄の伊江島(いえじま)へ運んだのが2機の「緑十字機」です。
緑十字機は、連合国側の指示により「全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描け」とされました。「緑十字機」という名称はこれに由来します。
◆マニラから降伏文書を運ぶ
8月19日、徹底抗戦を叫ぶ一部部隊からの攻撃を避けるため、本土上空を飛行する囮機(おとりき)を発進させつつ、2機の緑十字機は、木更津から南に迂回(うかい)するルートで伊江島へ向かいました。
伊江島から米軍機に乗り換え、マニラに到着した軍使たちは、最高機密の進駐日程(8月23日に連合国軍進駐軍の先発隊が到着、8月26日にマッカーサーが厚木基地に到着、8月28日に調印)を連合国側から知らされましたが、交渉の結果、連合国進駐を3日繰り下げることに成功しました。また、戦争を正式に終結させるための書類として、降伏文書、降伏に関する天皇の詔書(しょうしょ)、降伏実施に関する陸海軍総命令第一号を受け取りました。
8月20日、交渉を終えると、正式な終戦手続きを早期に進めるため、軍使たちはマニラから早急に経由地の伊江島へ向かいました。
しかし、伊江島を出発する間際、1機の緑十字機が故障してしまいます。緑十字機は残りの1機で軍使の半数を乗せ、先行して木更津へ向かうこととなりました。
◆鮫島海岸に不時着
伊江島を離陸した緑十字機は、海岸沿いのルートで木更津へ向かいました。
しかし、8月20日深夜、軍使を乗せた緑十字機は燃料切れのため鮫島海岸に不時着してしまいました。この時、不時着の現場を見かけた鮫島地域の住民たちは、すぐに救援にあたりました。この救援により、軍使たちは、現在の竜洋袖浦公園にあった飛行学校のトラックで代替飛行機のある浜松飛行場へ速やかに移動することができました。
浜松飛行場は、ほとんどの飛行機が富山県へ避難していましたが、1機だけ残されていました。この飛行機を修理し、浜松飛行場を離陸して、8月21日朝、調布飛行場へ到着しました。
そして、軍使たちは、連合国から受け取った降伏文書などの重要な書類を政府に届けることができました。
◇緑十字機の飛行ルート
往路は一部部隊(厚木航空隊)からの攻撃を避けるため南に迂回するルートで2機の緑十字機が木更津から伊江島へ向かいました。復路は故障した機体を伊江島に残し、1機のみが海岸沿いのルートで、木更津へ向いましたが鮫島海岸で不時着しました
◆戦争の終わり
8月28日、台風の影響により予定より2日遅れて、連合国進駐軍の先発隊は厚木飛行場へ到着しました。
そして、8月30日にマッカーサーが厚木飛行場へ降り立ち、「無血進駐」となりました。
9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号で連合国の代表が降伏文書に調印し、正式に戦争が終わりました。この後、旧ソ連軍は北海道の直前まで迫っていましたが、終戦のため攻撃を停止しました。
◇降伏文書(外務省外交史料館所蔵)
日本が無条件降伏を受け入れることを正式に宣言し、全ての戦争行為の停止や日本が連合国軍最高司令官の命令に従うことが明記されています