■ちょっと離れた処(ところ)から見る(俯瞰(ふかん)する)
ふれあい交流センター センター長 袴田 恭紹(はかまた やすつぐ)
交流センターの扉が開くと、多くの明るい表情の方々が入ってきます。実年齢は分からないものの軽やかな動きに躍動感が溢(あふ)れています。マスクをしていない方が増えてきているので、なお更に感じられるのかもしれません。
さて、WHO(世界保健機関)が、新型コロナウイルスによる「緊急事態」の終了を宣言しました。日本においても、感染症法上の位置付けが2類相当から5類感染症に移行しました。コロナ禍が終わったとは言えませんが、新しいステージに移行しているのは、間違いありません。元に戻ろうとする動きもありますが、この3年間で学んだことを生かした形で新ステージに移行していきたいと考えています。特に、人権については、考えさせられることが多く、今回は偏見の自覚について記述したいと思います。
コロナ禍においては、お互いの行動を制限し合う重苦しさが際立ちました。人間の心理が行動になって表れることに、恐ろしささえ感じることがありました。○○警察という言葉が盛んに使われ、正義という刀を振りかざしている人も現れました。
ひとつの事例で考えてみましょう。テレビで、中学生のインタビューが流れていました。その子は過敏症でマスクを着用することができず、周りから差別的な目で見られることがあると話していました。新型コロナ感染拡大を集団で防止しようとする正義感の表れであることは理解できますが、相手のことを分からないままに、全ての人に同じ行動を強いるのは、本当に正義なのでしょうか。正義感だけではなく、自分の思い込みや固定された考え方によって、特定の人を傷付けてしまうことは、思いの外、多くあるのかもしれません。大切なのは、個(相手)の立場になって考え、思いやることではないでしょうか。
自分自身が気付いていない見方や捉え方の歪みや偏りを「無意識の偏見」と言います。気が付かない内に自分の中に入り込んでいます。偏見があることが、非なのではなく、偏見がないと思っていることこそが非なのではないでしょうか。
相手を思いやることができれば、今考えていることが偏見なのかもしれないと気付き、相手が心を痛める言動を控えることができるかもしれません。自分自身の考え方を、ちょっと離れた処から見る(俯瞰する)ようにしてみたいと思います。