文字サイズ

【トピック1】徳川家康の時代から磐田の米づくりを支える寺谷用水

6/37

静岡県磐田市

■寺谷用水の開祖 平野重定(ひらのしげさだ)
寺谷用水の歴史はさかのぼること430年前、代官の平野重定が現在の磐田市寺谷地先から取水し、約12キロメートルの水路を開削(かいさく)したことが始まりです。
平野重定は、美濃国(現在の岐阜県)出身で、戦乱を避けて一族で遠江国豊田郡賀茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられています。
天正16年(1588)、浜松城主として遠江を支配していた徳川家康は、安定した稲作のため、「暴れ天竜」と呼ばれていた天竜川から水を引く寺谷用水の開発に取り組みました。工事を任されたのは家臣の伊奈忠次と、当時代官であった平野重定でした。
二人は大囲堤(おおがこいづつみ)(堤防)を造り、田畑や集落を天竜川の洪水から守ると同時に、大圦樋(おおいりひ)と呼ばれる取水口(しゅすいこう)を設け、寺谷から浜部までをつなぐ約12キロメートルの大井堀(おおいぼり)(用水路)を整備することで、約2000ヘクタールの水田を潤しました。
また、円滑な配水と水路の維持管理のため、農家による組合である「井組(いぐみ)」を組織し、自主的かつ民主的に用水を管理する仕組みを作りました。重定公は名奉行として多くの農民から慕われ、1624年に亡くなると、加茂にある大円寺に葬られました。

■歴史を変えた大圦樋
圦樋とは、堤防や道などを横切らせるために埋め込まれた木製の箱型の水路(函渠(かんきょ))です。
重定公は、天竜川左岸に堤防を築き、天竜川からの取水口を寺谷に定め、長さ21メートル、幅4メートル、高さ2メートルの大圦樋を設けました。かんがい施設と河川堤防の治水の両方を兼ね備えた技術は当時としては画期的なものであり、その後約300年間、日本各地で使われました。
大圦樋は、釘を用いずに多数の木製の柱や板を精巧に組み合わせて作られています。この時代に大河川の水流にも抵抗できる構造物を木材だけで作り上げたことは驚異的であり、前例のないものでした。天竜川の水圧や腐食により壊れることもありましたが、約7年に一度、作り替えられ、「井組」の努力によって維持されました。天竜川の流れが変わり、時代によって取水口の位置も変わりましたが、重定公が作った最初の取水口が寺谷にあったことから、地名に由来し、寺谷用水の名で呼ばれています。

■400年祭を開催
今年は寺谷用水の開祖平野重定公の没後400年の節目の年であり、10月6日(金)に寺谷用水400年祭を開催しました。

◇世界かんがい施設遺産登録記念碑除幕式
昨年10月に寺谷用水が世界かんがい施設遺産に登録されたことを機に作られた記念碑の除幕式が行われました。寺谷用水土地改良区の池田理事長は、「これからも寺谷用水が末永く良好な状態で保たれ、後世に引き継がれていくことを願っています」とあいさつしました。

◇用水祭
重定公の菩提寺である加茂の大円寺で行われました。用水祭は、重定公の命日に毎年行われ、寺谷用水土地改良区の役員や総代、国や県、市の関係者が出席し、寺谷用水の開削や発展に貢献した先人を偲(しの)び、感謝し、供養するものです。

■寺谷用水400年の歴史を1冊で まんがでわかる寺谷用水
400年にわたり、磐田の米づくりを支えている寺谷用水。長い歴史の中では、先人たちの絶え間ない努力がありました。そんな歴史を皆さんに知っていただくため、子どもでも楽しく学べるまんがを製作しました。広報いわたの4コマまんがでもおなじみの「しっぺい」「びぃも」に加え、まんがオリジナルキャラクター寺谷用水の精「てらすぅ」も登場します。
まんがは学校や公共施設に配布予定のほか、市ホームページでも読むことができます。

       

磐田市より市民のみなさまへ大切な情報をいち早くお届けします。 広報プラス -広報いわた-

MENU