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世界かんがい施設遺産に登録 寺谷用水

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静岡県磐田市

令和4年10月6日、オーストラリアから吉報が届きました。この日、オーストラリアで国際かんがい排水委員会(ICID)の理事会が行われ、世界かんがい施設遺産登録施設の決定協議が行われていました。この会で寺谷用水は、画期的な技術を取り入れた革新的なプロジェクトによって食料生産性を向上させ、水田農業の発展と農家の経済状況の改善に貢献したかんがい施設として、ICID世界かんがい施設遺産に登録されたのです。
この制度は、インドのニューデリーに本部を置くICIDが、かんがいの歴史や発展を明らかにし、かんがい施設の適切な保全に資することを目的として2014年に創設したものです。本年10月現在、寺谷用水を含めて世界17カ国142施設が登録されています。

400年以上前に先人が築いてくれた地域の宝が世界的にも認められたことを心よりうれしく思います。歴史ある磐田市が今なお繁栄しているのは、寺谷用水による安定した食料供給がもたらした、ゆるぎない生活基盤があってこそだと思います。今後もこの大切な遺産とともに地域の暮らしを豊かにしていけるように、寺谷用水を守り、活用し、継いでいきたいと思います。
寺谷用水土地改良区
理事長 池田 藤平

■ココがすごいぞ「寺谷用水」
▽堤防と函渠を組み合わせた構造
寺谷用水は、堤防と大型の木製函渠(かんきょ)を組み合わせて設計されました。この治水と利水の両方を兼ね備えたシステムは高く評価され、江戸幕府は、その後の多数のプロジェクトにこのシステムを活用しました。
なおこのシステムは、改良を加えながらセメントやレンガが普及するまでの約300年間広く採用され、日本の農業開発を促進した大型木製取水工建設の先駆けとなりました。

▽食料不足解消と農村の発展に寄与
1590年の大井堀の完成により、新たに7つの村が生まれ、約80の村の食料生産能力を安定的に向上させることができました。また1600年代の平均では、周辺地域で約10年ごとに干ばつによる食料危機が発生していました。しかし、用水が完成以降は、用水受益地における食料危機の記録は残っていません。

▽施設維持管理に向けた体制の整備
用水が完成した当時は、各村への円滑な配水と水路の維持管理のために、農民組合である「井組(いぐみ)」が組織されました。この井組による努力により、用水の改良や新たな整備が行われてきました。
現在では、寺谷用水土地改良区が井組を継承し、南北約20キロメートル、東西約6キロメートルの区域の用水運営や維持管理を担っています。寺谷用水土地改良区では、「水管理システム」を活用し、水を無駄にすることなく、どの地域にも迅速かつ平等に安定した水を供給できるように、寺谷コントロールセンターで集中管理をしています。

●寺谷用水ものがたり
稲を作る田に必要なものは水。この稲作の水を広い地域に届けているのが寺谷用水です。始まりは約400年前に現在の寺谷から浜部まで通じた、用水が通る大きな堀「大井堀(おおいぼり)」で、これを開いたのが平野重定(ひらのしげさだ)です。
徳川家康が磐田市を含む遠江(とおとうみ)の国を手に入れた時、家臣の中で土木技術に優れていた伊奈忠次(いなただつぐ)に天竜川の治水と流域の水田経営を命じました。忠次は、地域に詳しい平野重定(ひらのしげさだ)に相談し、2人は水田の用水路を整備することが大切だと考えました。そして、天竜川からの用水の取入口を寺谷村(現在の寺谷)に設けることを決め、この工事を任された重定は、1588年から工事に取り掛かりました。
重定は、水が通りやすいよう川をさらい、川筋を改めて正し、2年後の1590年に大井堀が完成させました。これにより、新田約400ヘクタールを含め約2000ヘクタールの水田を潤したといわれています。1624年、重定は人々に惜しまれながら亡くなり、加茂にある大円寺に葬られました。
大井堀は、重定亡き後も広い水田を潤してきました。ただ、少しずつ形を変える天竜川の流れへの対応や、後年に上流へ建設されたダムによる川床低下などにより、何度も用水の取入口変更を余儀なくされてきました。しかし、多くの方々の努力により、現在のように用水は整備、拡張され、水の安定供給がされるようになりました。

寺谷用水全体概要図
※本紙P.11をご覧ください。

       

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