ふれあい交流センター センター長
藤田圭二(ふじたけいじ)
私は、1992年に文部省若手教員海外派遣でカナダを訪れました。そこでクレストンという田舎町のエリクソン小学校に配属されました。
この小学校で私がまず驚いたことは、校長が職員の中で最も若年であったこと、先生方がコーヒーを飲みながら授業をしていたこと、耳にピアスをしている子どもが多くいたことなどでした。これらは、私が抱いてきた教育現場像とはかけ離れたものであり、大きなカルチャーショックを受けると同時に、刺激的でもありました。
エリクソン小学校では毎日授業を行いましたが、現地の子どもたちにとって初めて触れる「毛筆」と「折り紙」は、特に人気の高い授業でした。教師として学ぶべきことも多かったのですが、一日の日課に「掃除」の時間がないことにも驚きました。さらに衝撃を受けたのは、美術(小学校の図画工作)の時間に、新聞紙や雑誌を使って思い思いの作品を作る授業が終わり、「さあ、片付けしよう」と子どもたちに呼び掛けたとき、担任の教師に「片付けはしなくていい」と言われたことです。「自分たちが散らかしたゴミは、自分たちで片付けるのが当然だろう」と私が反論すると、その担任は「ここでは、片付けを仕事としている業者がいる。君は、その人たちの仕事を奪うのか」と言い返されたのです。「来た時よりも美しく」の精神は、日本人の誇るべきことであると、今でも自負しているのですが、当時の私に「ワークシェア」という概念は全くなく、その言葉には納得できませんでした。しかし、このカナダでは、当たり前のことなのかと疑問を持ちながらも、受け入れざるを得ませんでした。
それから30年近くが経過した現在、AIの登場で近い将来にさまざまな職業が消失していくと予想されています。一人の人間として、自分の仕事にやりがいを持つと同時に他人の仕事を尊重することは、基本的人権に深く関わることです。一人が多様な仕事をこなし、仕事量を増やすことが他人の仕事を奪い、その人権をも危うくする可能性があります。決して怠けるのが良いということではありませんが、30年経った今でも、「その人たちの仕事を奪うのか」の問いに、私は未だに明快な答えを出せないままでいます。